私がソフトウェアエンジニアになったわけ

今年の冬は例年になく寒くて雪が多いです…例年なら年末年始に温泉に出掛けて年越しすることろですが、今年は感染対策のために自宅で過ごしましたが、温泉地の積雪量はハンパ無いらしく、回避して正解だったかなぁ、と思ってます. ただ、自宅にいて好きな音楽を聴きながらブログやら書きつつ、ギターを練習したり、例年とは違う新年を迎え、これはこれでアリかと思う次第.

さて、2021年となり、早くも定年まで2年と少しとなりました. ただ、自分としては必要とされる限り働く所存でおりますが… 今の職場でソフトウェアエンジニアとして働くこと30年以上を経過しておりますが、なぜこの仕事を選んだのかをちょっと振り返ってみたいと思います.

夜明け前

大学では電気工学を学び(と言ってもロクに勉強もせずギターばっかり弾いてたダメな学生でした…)どちらかというとハードウェア志向、電子計算機の授業はありましたが、FORTRANでプログラミング内容であまり興味が持てなくて早々と脱落、単位落としました(笑)

4年になって研究室に入ってから、部屋に転がってた日立のBASIC MASTERを立ち上げてて友人たちと触っていろいろ作ってみたのがプログラミングの最初かもしれません. でも、その当時はこれを生涯の仕事にすることなど全く考えてませんでした. 研究室の先生もソフトウェア会社の就職も積極的に勧めませんでした. その当時, 1980年代初頭、プログラマ35歳定年説という言葉があったからです…今思えばなんともナンセンスな言葉…

電子系の開発をやりたいけど、漠然とした思いしかないまま大学を卒業し、最初の会社に入社したのが1986年.

きっかけは偶然

就職した会社は電子部品メーカー、配属されたのは出来たてホヤホヤの事業部で、CDプレーヤーを開発する部署でした. 見渡せば全員の顔が見える家族的な雰囲気でとても活気のある部署でした. その部署に配属されたのが大卒3名. 私を含め電気系の学生が2名、機械系が1名.

その職場は電気回路を設計するセクション、機構系を設計するセクション、さらに光ピックアップを開発するセクションに分かれており、会社としては私を光ピックアップに、電気系のもう一名を電気回路系に配属させるつもりだったそうな(後から聞いた話)

配属されて初日に各セクションのリーダーから開発内容を説明. 電気回路担当のセクションでは回路設計とともにCDプレーヤーに内蔵しているマイクロコンピューターのプログラム開発も担当していると聞かされ、お!っと思ったと同時に(ホント無学でした…)そんなところコンピューターが動いているのかぁ!という驚き.

電気系出身のもう一人(同期であり、いまだにお付き合いをさせていただいてます)は光ピックアップに興味を持ったようで、私は電気回路担当のセクションに、もう一人は光ピックアップ担当のセクションに配属となりました. これが私のソフトウェアエンジニアのキャリアのスタートでした.

ソフトウェアの世界にようこそ

配属してしばらく新しいモデルの開発を任されるようになりました. 廉価版のモデルで従来のモデルから機能を削減と変更. 基本的には先輩が書いたコードを廉価版のマイコンに移植する仕事です.

使っていたマイコンはROM、RAM, I/O とも一つのパッケージに入ったワンチップマイコン. ROMは1KByte, RAMは512Byteだったと記憶しています. プログラムは全部アセンブラで記述. プリンターで印字されたプログラムを全部読んで内容を理解することから始まります. 厚さ2センチくらいの紙の束を無心で読んでいくうちに、なんだか小説の中の世界にどっぷり入っていくような感覚に襲われます.

ワイはこの世界の王なり!w

そして試行錯誤を繰り返しながら自分でプログラムを修正して行くと、自分の思ったようにプログラムが動き出した瞬間、とても小さい規模ではあるけれども「俺は完全にこの世界をコントロールした!」と、この小さな世界の王になったような何とも言い難い気持ちを味わいました.

おそらくこの気持ちがそれから30年以上もソフトウェアエンジニアを続けられた理由の一つかもしれません. いまはプログラムの規模が大きくなってしまっているので、一人で全体を書きかげることは不可能ですが、一つのプロセス、一つのライブラリを書き上げた瞬間は同じような気持ちになることがあります. この気持ちを忘れずに生涯ソフトウェアを書いていければなぁと思います…(If you need me…)

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